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September 13 東京裁判 今日、「東京裁判」という映画を見た。以前その裁判についてほとんど知らない。今日不思議なことが相継いで目の前に呈して、複雑な気持ちであった。一時半ぐらいの映画なので、詳しく叙述できないと思う。ネットで調べてここに登載して、忘れさせないほうがいい。
☆極東国際軍事(東京)裁判☆ 第2次大戦後、連合国によって行なわれた、日本の戦前・戦中の(戦争)指導者28人(昭和天皇は訴追せず)を「重大戦争犯罪人」(A級戦犯 =政府・軍部首脳が対象⇒B・C戦犯)として審理した国際軍事裁判(国際軍事裁判は、東京とニュルンベルクで行われた)をいう(通称は東京裁判)==⇒日本の戦争犯罪についての軍事裁判。 ポツダム宣言第10項の戦犯処罰規程を根拠に、極東軍事裁判所条例により、11カ国の連合国名によって「平和に対する罪」「殺人と通例の戦争犯罪」「人道に対する罪」の3つに分類された55項目の訴因に基づく起訴状により46年4月29日に起訴された。
法廷は同年5月3日に開廷され、2年6カ月後の48年11月12日(開廷から判決まで924日間)に刑が宣告された。 判事は11カ国から1名ずつ任命され、オーストラリアのウェッブ判事が裁判長に選任された(中立国からは1人も選ばれなかった)。キーナン首席検事以下の国際検事団に対して、弁護団は鵜沢総明(うざわふさあき=後に明治大学総長)が団長、清瀬一郎が副団長となった。
キーナン首席検事は、冒頭陳述で、「東京裁判が世界を破滅から救うための文明の闘争である」と位置付けた。これに対して弁護側は、「平和に対する罪」「人道に対する罪」へと拡大された戦争犯罪の概念が国際法上未確立である上、「日本に侵略する意図はなく、満州事変から太平洋戦争にいたる戦争はすべて自衛のための戦争」と反論、激しく対立した。 起訴された28人中、裁判途中で死亡(松岡洋右〈ようすけ〉・永野修身〈おさみ〉)、病気免訴(大川周明〈しゅうめい〉)となった3人を除いて25人の被告人全員が有罪となり(55の訴因中10の訴因を認め、「満州事変から太平洋戦争にいたる日本の軍事行動を侵略戦争」と断定し、被告の多くに「侵略戦争の共同謀議」を認定)、その内絞首刑7人(東条英機元首相,板垣征四郎陸軍大将、土井原(どいはら)賢二陸軍大将,松井石根(いわね)陸軍大将,木村兵太郎陸軍大将,武藤章陸軍中将,広田弘毅(こうき)元首相=1948年12月23日に絞首刑)・終身禁固16人・禁固20年 1人・禁固7年1人であった。 判決は多数決によったが、少数意見の裁判官の5人いた。そのうちの1人ウエップ裁判長は、「どの日本人被告も、侵略戦争を遂行する謀議をしたこと、この戦争を計画及び準備したこと、開始したこと、または遂行したことについて、死刑を宣告されるべきでない」と判決文にしたため、フランスのベルナール判事は、「天皇が免責された以上共犯たる被告を裁くこができるのか」と述べ、インドのパル判事は、日本の「無罪」を主張し、アメリカの原爆投下を非難した。 GHQにより徹底した言論統制下に置かれていたことから、極東国際軍事裁判(東京裁判)に対する疑問や批判は封じられたばかりか、被告全員を無罪としたインドのパル判事による判決書は、刊行が禁止された。 判決後弁護側は、連合国軍最高司令官へ再審査を申し立てるが、却下され、直ちにアメリカ連邦最高裁に訴願するが、これも却下された。 起訴されなかったA級戦犯容疑者に対する第2次起訴が当初予定されていたが、冷戦構造の激化で見送られた。戦犯容疑で収監され最後(48年12月24日)まで起訴未決で勾留されていたのは、後に首相となり、安保条約改定(60年安保)を成し遂げた岸信介(しんすけ)、ロッキード事件で病床尋問された政界の黒幕児玉誉士夫(よしお)、笹川良一、後藤文夫、天羽(あもう)英二、須磨弥吉郎ら17人(うち岸と児玉は2次のA級戦犯として起訴が予定されていった)。また出頭を命じられたA級戦犯容疑者は100人を上回った(元参謀総長杉山元〈はじめ〉、元厚生大臣小泉親彦〈ちかひこ〉、元首相近衛文麿らは出頭を拒否し自殺した) ところで、極東国際軍事裁判で有期・無期の禁固刑に処せられたA級戦犯18名の中、獄中で病死した梅津美治郎〈よしじろう〉・白鳥敏夫・東郷茂徳〈しげのり〉・小磯国昭〈くにあき〉の4名以外の者も相次いで仮釈放の形で出所後、1958年4月の連合国通達により刑が免除された。結局彼らは、1948年11月東京裁判判決で終身・有期禁固刑に処されながら、10年も経たない内に娑婆にでた(出所した)ことなる。 A級戦犯で絞首刑になった7人をはじめ14人は、1978(昭和53)年10月から靖国神社に“昭和受難者”として合祀(ごうし)された。また、A級戦犯として絞首刑になった7人も、国内法では「刑死」ではない、「公務死」の扱いになっており、1953(昭和26)年年以降、遺族は、国内法による遺族年金または恩給の支給対象にもなっている。禁固7年とされた重光葵元外相は、戦後、鳩山内閣の副総理・外相となった。終身刑だった賀屋興宣元蔵相は、池田内閣の法相を務めている。“A級犯罪人”が法務大臣になったのである。 1978年10月17日、靖国神社が以下の14名を「昭和の殉難者」として合祀した。 板垣征四郎/梅津美治郎/木村兵太郎/小磯国昭/白鳥敏夫/土肥原賢二/東郷茂徳/東條英機/永野修身/平沼騏一郎/広田弘毅/松井石根/松岡洋右/武藤章 以下は東京裁判の合法性を否定するある学者の考え。皆さんの意見はどう?教えてくれ sub514 東京裁判 1、 国際法を無視した無効裁判 2、 判決は裁判の前から決まっていた パール判決書は、今もって公式には発表されることなく、闇の中に葬り去られています。しかし、東京裁判が国際法上では、正当性のかけらもない無効な裁判であるという評価は、すでに世界の常識となっています。なぜなら、裁判に関わった当事者たちが後に次々と非を認めたからです。 まず、裁判が行われた当初から、パール博士と同じく、意見書を出し「ドイツのナチスに比して刑が重すぎる。滅刑せよ」と判決に疑義を投げかけていたオランダのレーリング判事。彼は帰国して後、オランダのユトレヒト大学で教鞭をとり、国際法学者として名を知られるようになります。レーリングが七十八歳で亡くなる八年前に彼が東京裁判の真相を書き残した本が刊行されています。『ザートウキョウ・トライアル、アンド・ビョンド』(「東京裁判とその後」)です。この著書の中で、戦災の爪痕も生々しい首都圏を目の当たりにしたレーリングは、次のように述懐しています。 「われわれは日本にいる間中、東京や横浜をはじめとする都市に対する爆撃によって市民を大量に焼殺したことが、念頭から離れなかった。われわれは戦争法規を擁護するために裁判をしているはずだったのに、連合国が戦争法規を徹底的に踏みにじったことを、毎日見せつけられていたのだから、それはひどいものだった。もちろん、勝者と敗者を一緒に裁くことは不可能だった。東條(元首相)が東京裁判は勝者による復警劇だといったのは、まさに正しかった」 そして、「侵略」の定義さえなかった時代に、日本の侵略戦争と断じた愚挙にふれ、博士が危惧したのと同じく、「次の戦争では、勝者が戦争を終結した時に新しい法律をつくって、敗者がそれを破ったといって、いくらでも罰することができる、悪しき前例をつくった」と、この違法裁判が後世に残した禍根にふれています。 また、レーリングは「連合国側の犯罪行為については、一切取り上げることは許されなかった」と振り返り、東京裁判が最初から有罪を前提としたいかにひどい裁判だったかを暴露しています。レーリングの告発は続きます。連合国の犯罪行為には、指一本ふれさせなかったウエップ裁判長はしばしば泥酔して法廷にやってきました。そのことを明かした上で、レーリングは、「二流の人物」「とうてい役不足だった」とウエップ裁判長を酷評し、みずからをも含め、パール博士を除く判事が、国際法に関しては素人同然だった事実を認めたのです。レーリング自身、当時、ユトレヒト大学で蘭領東インド(現インドネシア)の刑法について教えていたので、アジアのことを少しは知っているだろうというだけの理由で選ばれたといいます。 4、 当事者たちも告白している東京裁判の違法性 6、 戦後スタートの日本の誤りを根本から是正せよ February 12 俳句俳句のリズム (1) 句切れ (2)切れ字…句中で、内容や意味を途中で切る働きをする語。切ることで余情を感じさせ句の主題を強調することができる。 切れ字になる語には⇒ぞ、かな、や、けり、ず、ぬ、らむ 俳句の表現技法(短歌と同じはたらきをする。) (1)比喩 「銀行員ら 朝より蛍光す いかのごとく」<金子兜太・松本たかし> ⇒蛍光灯の下で働く銀行員=いか (2)体言止め 「柿くえば 鐘が鳴るなり 法隆寺」 <正岡子規> ⇒季節は秋。門前の茶店で柿を食べ休憩。しみじみと秋を感じる。 正岡子規(1867~1902)自然をありのまま客観的に詠む写生俳句を唱えて俳句革新に努めた。ついで万葉調の写生短歌を唱え近短歌を確立した。俳句も名称も子規がつけた。 (3)倒置法
<俳句鑑賞のてびき> ①ニ句一章…俳句は、一句が二つの世界からできていることが多い。 ②季語…季節の感覚を鋭敏につかむ。 1) 芋の露 連山影を 正しうす <飯田蛇笏> 『露』で秋が季節だと分かる。里芋の広い葉におりた美しく澄んだ露に秋の冷たくさわやかな空が感じられる。それが「連山影をただしうす」という見方につながる。 2) いわし雲 大いなる瀬を さかのぼる <飯田蛇笏> 『いわし雲』で秋。大空いっぱいいわし雲を映しているので「大いなる瀬」である。 季語のきまり 1)どの季節に属するかは規定されている。 2)一句に一つが原則。二つ以上の季重ねは避けるが、複数の時は主題のものが季語となる。 いろいろな季語 新年⇒今年、元旦、門松、初詣、若菜、初空、初日etc. 春⇒ 風光る、流水、雪崩、立春、夏近し、試験、入学、卒業、桜、梅etc. 夏⇒ 南風、五月雨、夕立、梅雨、短夜、風鈴、蟹、麦、バナナetc. 秋⇒ 月、流星、台風、爽やか、夜長、七夕、渡り鳥、紅葉、葡萄etc. 冬⇒ 木枯、北風、時雨、節分、年越し、餅、こたつ、熊、冬眠、白菜etc. <有名な短歌&俳句紹介> くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やはらかに 春雨の降る <正岡子規> 意味→薔薇の新芽はまだ紅でいかにも柔らかく、そこにまた春雨が柔らかに降る。 みちのくの 母のいのちを 一目見ん 一目みんとぞ ただにいそげる<斎藤茂吉> 意味→故郷(東北の山形県上山市)で死を待つばかりになった母、母が生きているうちに一目会いたい、会いたい一心で急ぐ。 たはむれに母を背負ひて そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず<石川啄木> 意味→ふざけて母を背負ってみると、あまりに軽いのに驚き、思わず泣けて三歩と歩くことができなかった。なんと母は年老いてしまったのか。 February 09 短歌 露のようなもの短歌のリズム (1)句切れ…意味や調子の切れ目。句点「。」をつけられるところをさす。初句切れ、ニ句切れ、三句切れ、四句切れ、句切れなしの四つの句切れがあります。 (2)歌調…句切れにより、五七、七五の歌調がうまれる。 1) 五七調⇒雄大・素朴・男性的なリズム。「万葉集」に多い。 2) 七五調⇒優美・なだらかなリズム。「新古今和歌集」に多い。 短歌の表現技法 (1)あるものをほかのものにたとえる表現技法。 1)倒置…読者の印象を強める表現技法。 「金色の ちひさき鳥 かたちして 銀杏ちるなり 夕日の岡に 」<与謝野晶子> (夕日の岡に 銀杏ちるなり)意味⇒こがねいろに輝く小さな鳥の形そのままに銀杏の黄葉が散ってゆく。夕日のさしている岡に。 与謝野晶子1878~1942)大阪生。与謝野鉄幹と結婚。第一歌集『みだれ髪』では、激しい情熱奔放な空想によって人間の本能を強く肯定し、封建道徳に抵抗した。 2)体言止め…強めたり、を残す表現技法。 3)…句の初めまたは終わりに同一音を並べ、歌にリズムをつける表現技法。 「やわらかに 柳(やなぎ)あをめる 北(きた)上の 岸(きし)辺目に見ゆ 泣けとごとくに」 <石川啄木> 意味⇒故郷を思うと柳の芽があおむ北上川の岸辺が目に浮かぶ。なつかしく涙をさそうように。 石川啄木(いしかわ・たくぼく)(1886~1912)岩手県生。第一詩集『あこがれ』を出し天才的浪漫詩人の名を得たが、生活は苦しく、渋民村の代用教員、函館で新聞記者などをする。文学への思いをすてず明治41年上京。しかし、貧しさと胸の病に追われ、27歳の若さで病死する。実生活に根ざした感情(母・労働・貧しい生活・希望を日常語を使った三行書きの短歌に表現する。 4)枕詞…ある語を導き出すために前に置く修飾語。多くは五音かたなり、普通訳す意味をもたない。 「のど赤き 玄鳥ふたつ 屋にゐって 足乳根の母は 死にたまふなり」 <斎藤茂吉> 意味⇒巣づくりを新しい生命を生もうとする雌雄の嚥。この世を去った母。 斎藤茂吉(さいとう・もきち)山形県生。(1882~1953)大正二年、第一歌集『赤光』を出し、自我に支えられた強烈な余情を万葉調の歌に定着せた。正岡子規の写生説をさらに深め、生の根源の姿を写し取るという説をたて、「アララギ」全盛の基礎を築いた。 いろいろな枕詞 あしきの⇒山、峰 からころも⇒着る、袖、裾 くさまくら⇒旅、かり たらちねの⇒母、親 ひさかたの⇒光、、天、空 しろたえの⇒紐、雪 <短歌鑑賞のてびき> (1) 感動の中心をつかむ…感動の中心を引き出すための背景をつかむ。感動を表す語には「けり」、「なり」、「かな」、「かも」などがある。 (2)声に出して読む…リズム・情感をつかむ。 |
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