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    September 23

    最好看的柯南剧场版 最好听的音乐

                 

    迷宫的十字路口

    もしも君に巡り逢えたら  如果还能与你邂逅
    二度と君の手を离さない  绝对不再放开你的手
    春の终わり告げる 花御堂  霞む花一枚  花御堂前 朦胧的一枚花瓣 告知春天将尽

    苏る 思い出の歌  この胸に 今も优しく  在我心中苏醒而忆起的歌曲 现在依然是如此的优美

    time after time
    君と出逢った奇迹  一次又一次(想象)与你偶遇的奇迹
    缓やかな风吹く町で  (一定是)在那微风缓缓吹过的城镇
    そっと手を繋ぎ 歩いた坂道  静静的牵著手 一起走过的坡道
    今も忘れない约束  (以及)直到如今也没有忘记的约定
     
    风に君の声が闻こえる 风中可以听到你的声音
    薄氷 冴える 远い记忆  那如薄冰般寒冷遥远却清晰的记忆
    伤付く怖さを知らず 誓った 当初发誓对伤心无所畏惧
    いつかまたこの场所で  何时还能再一次 在这同样的地方(发生)

    めぐり逢おう 薄红色の  季节がくる日に 笑颜で
    在薄红色季节的日子来临的时候 带着笑容再一次相遇吧

    time after time
    一人 花舞う町で  一次又一次  一个人在花瓣飘舞的街道
    散らざるときは戻らないけれど 虽然散落之时无法再次挽回
    あの日と同じ 変わらない景色に 但在与那一天同样不曾改变的景色中
    涙ひらり 待っていたよ 泪水也轻轻的落下喔
     
    风舞う花びらが 水面を抚でるように 如随风飘舞的花瓣抚平水面一般
    大切に想うほど 切なく没有什么比珍贵的怀念更让人难过

    人は皆孤独と言うけれど 虽说人都是孤独的
    探さずにはいられない 谁かを 但谁也不会因此而不在寻找相伴的人
    儚く壊れやすいものばかり 追い求めてしまう结果追求的却是脆弱易碎的东西

    time after time
    君と色づく町で 一次又一次的想象着如果在樱花染粉的街道
    出逢えたら もう约束はいらない 与你邂逅 就再也不需要任何约定
    谁よりもずっと 伤付きやすい君の 这一次一定要
    そばにいたい今度は きっと 陪在比谁都容易受伤的你身边

     

    September 13

    東京裁判

     今日、「東京裁判」という映画を見た。以前その裁判についてほとんど知らない。今日不思議なことが相継いで目の前に呈して、複雑な気持ちであった。一時半ぐらいの映画なので、詳しく叙述できないと思う。ネットで調べてここに登載して、忘れさせないほうがいい。

    ☆極東国際軍事(東京)裁判☆

    第2次大戦後、連合国によって行なわれた、日本の戦前・戦中の(戦争)指導者28人(昭和天皇は訴追せず)を「重大戦争犯罪人」(A級戦犯 =政府・軍部首脳が対象⇒B・C戦犯)として審理した国際軍事裁判(国際軍事裁判は、東京とニュルンベルクで行われた)をいう(通称は東京裁判)==⇒日本の戦争犯罪についての軍事裁判

    ポツダム宣言第10項の戦犯処罰規程を根拠に、極東軍事裁判所条例により、11カ国の連合国名によって「平和に対する罪」「殺人と通例の戦争犯罪」「人道に対する罪」の3つに分類された55項目の訴因に基づく起訴状により46年4月29日に起訴された。

    法廷は同年5月3日に開廷され、2年6カ月後の48年11月12日(開廷から判決まで924日間)に刑が宣告された。 

    判事は11カ国から1名ずつ任命され、オーストラリアのウェッブ判事が裁判長に選任された(中立国からは1人も選ばれなかった)。キーナン首席検事以下の国際検事団に対して、弁護団は鵜沢総明(うざわふさあき=後に明治大学総長)が団長、清瀬一郎が副団長となった。

    キーナン首席検事は、冒頭陳述で、「東京裁判が世界を破滅から救うための文明の闘争である」と位置付けた。これに対して弁護側は、「平和に対する罪」「人道に対する罪」へと拡大された戦争犯罪の概念が国際法上未確立である上、「日本に侵略する意図はなく、満州事変から太平洋戦争にいたる戦争はすべて自衛のための戦争」と反論、激しく対立した。

    起訴された28人中、裁判途中で死亡(松岡洋右〈ようすけ〉・永野修身〈おさみ〉)、病気免訴(大川周明〈しゅうめい〉)となった3人を除いて25人の被告人全員が有罪となり(55の訴因中10の訴因を認め、「満州事変から太平洋戦争にいたる日本の軍事行動を侵略戦争」と断定し、被告の多くに「侵略戦争の共同謀議」を認定)、その内絞首刑7人東条英機元首相,板垣征四郎陸軍大将、土井原(どいはら)賢二陸軍大将,松井石根(いわね)陸軍大将,木村兵太郎陸軍大将,武藤章陸軍中将,広田弘毅(こうき)元首相=1948年12月23日に絞首刑)・終身禁固16人・禁固20年 1人・禁固7年1人であった。 

    判決は多数決によったが、少数意見の裁判官の5人いた。そのうちの1人ウエップ裁判長は、「どの日本人被告も、侵略戦争を遂行する謀議をしたこと、この戦争を計画及び準備したこと、開始したこと、または遂行したことについて、死刑を宣告されるべきでない」と判決文にしたため、フランスのベルナール判事は、「天皇が免責された以上共犯たる被告を裁くこができるのか」と述べ、インドのパル判事は、日本の「無罪」を主張し、アメリカの原爆投下を非難した。 

    GHQにより徹底した言論統制下に置かれていたことから、極東国際軍事裁判(東京裁判)に対する疑問や批判は封じられたばかりか、被告全員を無罪としたインドのパル判事による判決書は、刊行が禁止された。  

    判決後弁護側は、連合国軍最高司令官へ再審査を申し立てるが、却下され、直ちにアメリカ連邦最高裁に訴願するが、これも却下された。 

    起訴されなかったA級戦犯容疑者に対する第2次起訴が当初予定されていたが、冷戦構造の激化で見送られた。戦犯容疑で収監され最後(48年12月24日)まで起訴未決で勾留されていたのは、後に首相となり、安保条約改定(60年安保)を成し遂げた岸信介(しんすけ)、ロッキード事件で病床尋問された政界の黒幕児玉誉士夫(よしお)、笹川良一、後藤文夫、天羽(あもう)英二、須磨弥吉郎ら17人(うち岸と児玉は2次のA級戦犯として起訴が予定されていった)。また出頭を命じられたA級戦犯容疑者は100人を上回った(元参謀総長杉山元〈はじめ〉、元厚生大臣小泉親彦〈ちかひこ〉、元首相近衛文麿らは出頭を拒否し自殺した) 

    ところで、極東国際軍事裁判で有期・無期の禁固刑に処せられたA級戦犯18名の中、獄中で病死した梅津美治郎〈よしじろう〉・白鳥敏夫・東郷茂徳〈しげのり〉・小磯国昭〈くにあき〉の4名以外の者も相次いで仮釈放の形で出所後、1958年4月の連合国通達により刑が免除された。結局彼らは、1948年11月東京裁判判決で終身・有期禁固刑に処されながら、10年も経たない内に娑婆にでた(出所した)ことなる。 

    A級戦犯で絞首刑になった7人をはじめ14人は、1978(昭和53)年10月から靖国神社に“昭和受難者”として合祀(ごうし)された。また、A級戦犯として絞首刑になった7人も、国内法では「刑死」ではない、「公務死」の扱いになっており、1953(昭和26)年年以降、遺族は、国内法による遺族年金または恩給の支給対象にもなっている。禁固7年とされた重光葵元外相は、戦後、鳩山内閣の副総理・外相となった。終身刑だった賀屋興宣元蔵相は、池田内閣の法相を務めている。“A級犯罪人”が法務大臣になったのである。

    1978年10月17日、靖国神社が以下の14名を「昭和の殉難者」として合祀した。

    板垣征四郎/梅津美治郎/木村兵太郎/小磯国昭/白鳥敏夫/土肥原賢二/東郷茂徳/東條英機/永野修身/平沼騏一郎/広田弘毅/松井石根/松岡洋右/武藤章

    以下は東京裁判の合法性を否定するある学者の考え。皆さんの意見はどう?教えてくれ

    sub514 東京裁判
    「歴史の真実」 前野徹著 

    五十年前に今日の日本の混迷を予言したインド人

    1、 国際法を無視した無効裁判
     
    東京裁判とはいったいどのような裁判であったのか。その実体から明らかにしてみたいと思います。すでに述べたように東京裁判は俗称で、正式には「極東国際軍事裁判」といい、昭和二十一年から二十三年まで二年間、東京の市ケ谷陸軍士官学校跡で開かれました。東京で行われたので、「東京裁判」の名がついています。
     日本の断罪は、昭和六年に勃発した満州事変にさかのぼります。満州事変から、大東亜戦争にいたる一連の日本の行為を連合国側は侵略とみなし、占領軍であるマッカーサー司今部が作成した
    「極東国際軍事裁判条例(チャーター)
    に基づき、戦争犯罪人を起訴しました。起訴されたのは、いわゆる「A級戦犯」と呼ばれる戦争責任者たちです。
     東條英機元首相を筆頭に土肥原賢二
    (元陸軍大将)、廣田弘毅(近衛内閣外相)、板垣征四郎(元関東軍参謀長)
    ら二十八名で、昭和二十一年四月二十九日のことでした。
     そしてダグラス・マッカーサー司令官によって任命された、米、英、仏、オランダ、ソ連、カナダ、ニュージーランド、中国、オーストラリア、フィリピン、インドの各国から選ばれた十一人の判事によって二年間にわたる審理が重ねられ、昭和二十三年四月十六日にすべての審理が終了しました。
     判決がはじまったのは、同年十一月四日。判決文の朗読が終わると、最後に刑が宜告されました。これが十一月十二日のことです。
     東京裁判の判事は次の十一力国十一人です。
         
    アメリカ代表      マイロン・C‐クレーマー        イギリス代表      パトリック
         ソ連代表        I・M・ザリヤノフ             フランス代表      アンリー・ベルナール
         中華民国代表     梅汝敖                 オランダ代表      バーナード・ウィクター・A・レーリング
         カナダ代表       E・スチュワート・マックドウガル   オーストラリア代表   ウィリアム・F・ウエッブ
         ニュージーランド代表 エリマ・ハーベー・ノースクロフト  フィリピン代表      ジヤラニフ
         インド代表        ラダ・ビノード・バール

     アメリカ、イギリス、ソ連、フランス、中国、オランダ、カナダ、オーストラリア、ニユージJランドの九カ国は日本と交戦した連合国として、フィリピンは当時、アメリカの保護国、インドはイギリスの属領でともに独立国ではありませんでしたが、両国とも連合国に協力し、多大な犠牲を払ったという理由で代表判事に加わりました。
     裁判長は、オーストラリア代表のウエップ判事です。十一人の判事の判決はどうだったのでしょうか。結論からいえば、米、英、ソ連、中国、カナダ、ニュージーランドの六力国の判事が下した有罪とする判決が多数派として通り、日本国ならびに戦争の首謀者は有罪となりました。
     しかし、後の五人は、この六人とは異なる意見書
    (判決)
    を提出しています。六人の判決を軽すぎるとしたのは、フィリピンのジャラニフ判事のみで、ほかの四人は六人の意見に疑問を投げかけました。
     減刑を主張したのは、オランダのレーリング判事。
    「廣田弘毅元首相は無罪、ほかの死刑因も減刑せよ。ドイツのナチスの処刑に比して重すぎる」
    との見解です。
     フランスのベルナール判事は、
    「この裁判は法の適用および手続においても誤りがある」と裁判の不当性を指摘し、「十一人の判事が一堂に集まって協議したことは一度もない」
    と内部告発の声さえあげています。
     そして、終始一貫して全員無罪、いや
    「東京裁判は裁判にあらず、復讐の儀式にすぎない」
    と強く抗議し、裁判自体を違法として、根底から否定した判事がインドのパール博士でした。
     
    「この裁判は、国際法に違反しているのみか、法治社会の鉄則である法の不遡及まで犯し、罪刑法定主義を踏みにじった復警裁判にすぎない。したがって全員無罪である」
    と傅士は主張しました。
     法の不遡及とは、後でできた法律で過去の出来事をさかのぼって裁いてはいけないという法治社会の根本原則です。
     多数派の判事が同意した検察側の起訴状の内容は、
    「東條英機元首相以下二十八人の戦犯は共同謀議を行っていた。目的は侵略による世界支配である。その目的を果たすために通常の戦争犯罪のほかに、〃平和に対する罪〃、〃人道に対する罪〃を犯した」
    とするものでした。
     日本は世界征服をたくらみ、アジア各国を侵略していったというのです。通常の戦争犯罪とは、捕虜の虐待、民間人の殺戮、放火、略奪などをさします。博士はそれらの戦争犯罪を認めた上で、なお日本を無罪としました。
     
    「平和に対する罪」「人道に対する罪」
    など、国際法上は存在していなかったからです。いやそれどころか、戦時中は、連合国側にしても敗戦国の指導者を裁こうという発想自体が存在していませんでした。
     東東裁判やニュルンベルグ裁判の実施は、戦後になってからあわただしく決定されたのです。ドイツが降伏したのが一九四五年五月七日。この時から戦後処理に向かって、連合国は動きはじめますが、具体的な内容が決まったのは、日本が降伏するわずか一週間前の八月八日でした。
     この日、ロンドンで英米仏ソの四力国外相会談が催され、四力国はヨーロッパ枢軸国の
    「重大戦争犯罪人の審理と処罰のための裁判所を設置するために国際軍事裁判条例を定めること」
    にはじめて合意します。
     これに基づき、ドイツの首脳を裁いたニュルンベルグ国際軍事裁判起訴状が十月に発布されました。
     この時、ナチス・ドイツを裁くにあたって、連合国側が持ち出してきたのが、
    「人道に対する罪」「平和に対する罪」
    です。すなわち、日本とA級戦犯とされた被告たちは事後法によって裁かれたわけです。事後法で裁くことは文明社会では許されていません。
     ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺
    (ホロコースト)を罰するためにニユルンベルグ裁判条例で新しく設けられた「人道に対する罪」
    を、ナチスのような民族大虐殺を行っていない日本に適用したのはあまりにも強引です。

    2、 判決は裁判の前から決まっていた
     そもそもこの裁判は、最初から違法でした。オーストラリアのウエッブ裁判長とフィリピンのジャラニ判事は法廷に持ち出された事件に、前もって関与していたので判事としては不適格でしたし、協定用語
    (法廷での公用語)である英語と日本語がともに理解できないソ連のザリヤノフ判事とフランスのベルナール判事らも適切な判事ではありませんでした。ましてや中国の梅汝敖判事は、本来裁判官ではなく、論外です。国際法の学位を持つ判事はパール博士ただひとりというでたらめぶりです。
     裁判中の判事たちのふるまいも対照的でした。ほかの判事が観光旅行や宴会にうつつを抜かしている間も、博士は、ホテルに閉じこもり、調査と執筆に専念していました。裁判の間に博士が読破した資料は四万五干部、参考図書は三千部におよんだといいます。しかも驚くべきことに、裁判を開く前に判決は決まっていたという事実が後に判明しました。
     博士が、後にご子息、プロサント氏に
    「裁判所が判事団に指令して、あらかじめ決めている多数意見と称する判決内容への同意を迫った。さらにそのような事実があったことを極秘にするために、誓約書への署名を強要された」
    と語り残しています。博士はこのようなプレッシヤーの中、断固として同調を拒否し続けたのでした。博士の毅然とした態度は、占領軍、ひいてはアメリカ本国の誤算でした。
     昭和二十一年の春、マッカーサー司今部は、すでに発布していたチャーター
    (極東国際軍事裁判条例)
    を改訂して、すでに任命している連合国九カ国の判事団に加え、当時は欧米列強の統治下にあったフィリピンとインドから判事を招聘することを決め、英国政府を通じて、インド人の判事の選考を求めました。選考の結果、選ばれたのがすでに世界の国際法学会で議長団のひとりとして活躍していた国際法の学者、パール博士です。
     しかし、この選考には大きな裏がありました。それは博士がそれまで職務と学間に精励してはいたが、インドの独立運動に参加していなかったからという選考理由です。インドは長い間、西洋列強の支配に苦しんでいました。後にお話しするように、この列強の支配から脱するための独立運動を支援したのが日本軍だったのです。
     なぜ、すでに決定していた判事団にフィリピンとインドの判事をあらたに加えようとしたのか。この駆け込みの変更も、東京裁判の性格を雄弁に物語っています。当初選ばれた判事団には、アジアからは中国一力国だけしか入っていなかったからです。あらたにアジア二カ国(それも当時は完全な独立国ではありません)の判事を参加させることによって、アジアの多くの国が日本を罪悪視しているという印象を演出しようとしたのです。
     ところが、マッカーサー司令部の意に反して、高潔な法律家であった博士は、
    「法の真理」
    に準じ、最後まで公正な判決をつらぬき通しました。
     博士は
    「戦勝国が敗戦国の指導者たちを捕らえて、自分たちに対して戦争をしたことは犯罪であると称し、彼らを処刑しようとするのは、歴史の針を数世紀逆戻りさせる非文明的行為である」と論じ、「この裁判は文明国の法律に含まれる貴い諸原則を完全に無視した不法行為」
    であると宣言しました。
     仮に、東京裁判が名目どおり
    「平和に対する罪」
    を裁く裁判だとしたら、世界のいかなる国に対しても公正に国際法が適用されてしかるべきです。裁く者は戦勝国民で、裁かれる者は戦敗国民などということがあづてはならないはずです。戦争に勝った者が正しく、戦争に負けた者が正しくないなどという理屈は天地がひっくり返っても通らないからです。
     英文にして千二百七十五ページ、日本語にして百万語にもおよぶ博士の意見書の末尾には、こう書かれています。
     
    「ただ勝者であるという理由だけで、敗者を裁くことはできない」


    3、 東京裁判の違法論議に加わらない日本の不思議

     パール判決書は、今もって公式には発表されることなく、闇の中に葬り去られています。しかし、東京裁判が国際法上では、正当性のかけらもない無効な裁判であるという評価は、すでに世界の常識となっています。なぜなら、裁判に関わった当事者たちが後に次々と非を認めたからです。
     まず、裁判が行われた当初から、パール博士と同じく、意見書を出し
    「ドイツのナチスに比して刑が重すぎる。滅刑せよ」と判決に疑義を投げかけていたオランダのレーリング判事。彼は帰国して後、オランダのユトレヒト大学で教鞭をとり、国際法学者として名を知られるようになります。レーリングが七十八歳で亡くなる八年前に彼が東京裁判の真相を書き残した本が刊行されています。『ザートウキョウ・トライアル、アンド・ビョンド』(「東京裁判とその後」)です。この著書の中で、戦災の爪痕も生々しい首都圏を目の当たりにしたレーリングは、次のように述懐しています。
    「われわれは日本にいる間中、東京や横浜をはじめとする都市に対する爆撃によって市民を大量に焼殺したことが、念頭から離れなかった。われわれは戦争法規を擁護するために裁判をしているはずだったのに、連合国が戦争法規を徹底的に踏みにじったことを、毎日見せつけられていたのだから、それはひどいものだった。もちろん、勝者と敗者を一緒に裁くことは不可能だった。東條(元首相)が東京裁判は勝者による復警劇だといったのは、まさに正しかった」

     そして、
    「侵略」の定義さえなかった時代に、日本の侵略戦争と断じた愚挙にふれ、博士が危惧したのと同じく、「次の戦争では、勝者が戦争を終結した時に新しい法律をつくって、敗者がそれを破ったといって、いくらでも罰することができる、悪しき前例をつくった」と、この違法裁判が後世に残した禍根にふれています。
     また、レーリングは
    「連合国側の犯罪行為については、一切取り上げることは許されなかった」と振り返り、東京裁判が最初から有罪を前提としたいかにひどい裁判だったかを暴露しています。レーリングの告発は続きます。連合国の犯罪行為には、指一本ふれさせなかったウエップ裁判長はしばしば泥酔して法廷にやってきました。そのことを明かした上で、レーリングは、「二流の人物」「とうてい役不足だった」とウエップ裁判長を酷評し、みずからをも含め、パール博士を除く判事が、国際法に関しては素人同然だった事実を認めたのです。レーリング自身、当時、ユトレヒト大学で蘭領東インド(現インドネシア)
    の刑法について教えていたので、アジアのことを少しは知っているだろうというだけの理由で選ばれたといいます。

    4、 当事者たちも告白している東京裁判の違法性
     東京裁判の過ちを認めたのは、レーリング判事だけではありません。レーリングから
    「とうてい役不足」と酷評されたウエップ裁判長も、東京裁判の主席検事で米国の代表者、キーナン検事も、後に東京裁判は国際法に準拠しない違法裁判であることを認める発言を行っており、現在、東京裁判の正当性を信じている法律家は皆無といっていいほどです。
     東京裁判を画策した張本人のマッカーサー元師でさえ、昭和二十五年十月十五日、ウエーキー島でトルーマン大続領と会見した際、東京裁判は誤りだったとの趣旨の告白を行ったばかりか、翌年五月三日に開かれたアメリカ上院の軍事外交合同委員会の聴聞会においても、
    「日本が第二次世界大戦に突入していった理由の大半は、安全保障だった」と明言しています。GHQでマッカーサーの側近であったホイットニー少将の回想録にも、マッカーサーの次のような発言が出てきます。「敗戦国の政治指導者を犯罪人としたことは忌わしい出来事だった」
    と。
     マッカーサーは当初、
    「真珠湾に対する〃騙し討ち〃だけを裁く裁判を望んでいたのだが、ドイツでニユルンベルグ裁判がはじまってしまったので、日本に対してもやむなく同様の裁判を行わなければならなくなった」
    と苦しい心の内を語っていたようです。
     裁判終了後、ホイットニーがオランダにレーリングを訪ねています。このとき交わされた会話も当時のGHQ幹部たちの複雑な心境を伝えています。
     ホイットニー 
    「東京裁判は人類の歴史の中で、もっとも偽善的なものだった。あのような裁判が行われた限り、息子が軍人になるのを禁じざるをえなかった」

     レーリング  
    「なぜか」
     ホイットニー 
    「アメリカも日本と同じような状況に追い込まれたら、日本がそうしたように戦うに違いない」
     国際法の常識では、占領軍は占領地の国内法を尊重しなければないとなっています。この基本的な決めごとすら無視して、東京裁判は行われたのですから、東京裁判に関わった当事者たちが非を認めても当然です。
     なのに、ひとり日本人のみが、東京裁判から五十年以上たった今でも、その正当性を疑おうともせず、東京裁判史観に呪縛され続けている。これはいったいどうしたことでしょうか。
     当時、欧米など世界の法学者の間では、すでに東京・ニュルンベルグの両軍事裁判の是非について激しい論争が展開されていました。そして、多くの学者たちが、東京裁判の正当性に疑間を呈し、裁判に対する反省を口にしていました。欧米のマスコミもさかんにこのニユースを流し、ロンドン・タイムズはニカ月間にわたって論争を連載、多くの書籍も出版されたほどです。ところが、被害国であるはずの当の日本は、議論に参加しないばかりか、マスコミも国民もこの重大な国際問題に無関心でした。
     
    「同抱たちが、年獄で苦しんでいるというのに、議論にソッポを向き、国際正義を勝ち取ろうともしないのはどうしたことか」と博士は、日本人のふがいなさ、無関心、勉強不足に痛く失望し、慣慨すらされていたというのです。
     裁いた連合国側ですら東京裁判の違法性が議論されたのに、なぜ日本では世論が盛り上がらなかったのか。後で述べるように、最大の原因は、占領軍による戦後のプロパガンダが成功していたためです。そのため、本当に日本に侵略意図があったのか、戦犯に法的根拠があるのかなどの本質にふれることなく、日本人は東京裁判史観を受け入れていきました。
     本来、問題を指摘すべき、当時の日本の有識者や法律家、それを伝えるべきジャーナリストは、あえて東京裁判から目をそむけ、歴史の真実を解き明かそうとせず、アメリカのご機嫌をうかがってばかりいました。
     それだけならまだしも、外務省は、英文パンフレットまでつくって、東京裁判に対する御礼を出していたのですからあきれます。当時は、アメリカの影響力が大きく、
    「アメリカが風邪を引けば、くしやみをする」
    といわれた時代です。独立を果たしたとはいえ、まだ日本はアメリカの庇護がなければ、経済的にも、国際政治の場でも、力を持ち得ませんでした。
     しかし、そんな状況下でも、日本の国益を考えれば、間違いは間違いとして正し、将来への禍根は断ちきっておくべきでした。ここで道を誤ったために、
    「長いものには巻かれろ」「ことなかれ主義」
    という戦後の悪しき習慣が日本国民に浸透していったといっても過言ではありません。
    5、 原爆を投下された被害国がなぜ謝罪する

     読者の中には、
    「いや、日本人は東京裁判史観に縛られてなどいない」と感じる方がいるかもしれません。大東亜戦争は、話に聞くだけで、もう自分たちの世代とは関係ない。日本人は、自虐的な史観を持ち続けていていると考えるのは、それこそ被害妄想ではないか、と思われる方もいるでしょう。
     だが、果たしてそうでしょうか。毎年、八月六日の広島原爆記念日や、八月九日の長崎原爆記念日には、
    「ノーモア広島」を合い言葉に犠牲になった人々の慰霊祭が開催され、また八月十五日の終戦記念日には戦争で亡くなった方たちの追悼が行われます。その席上やニュースで必ず聞こえてくるのは、「私たちは、あの過去の悲劇を二度と繰り返しません」という反省の言葉です。また、広島の原爆慰霊碑には、「安らかにお眠りください。私たちは二度とこの過ちは繰り返しませんから」
    と刻まれています。
     これはどう考えても納得がいきません。悲劇を繰り返さないといいますが、加害者は、原爆を投下して、二十万人もの命を奪ったアメリカです。勝敗はすでに決していたのに、大量殺人を犯したのは、アメリカのほうなのです。しかも、原爆を広島に投下するにあたり、アメリカは、明らかに最初から大量殺毅を意図していました。原爆が落とされる少し前、広鳥の上空にB29が来襲し、空襲警報が鳴り、広島市民は、防空壕に難を逃れました。しかし、敵機はそのまま広島上空を通過、空襲警報は解かれました。夏の蒸し暑い日のことです。防空壕から出てきた市民たちは、シャツを脱ぎ、上半身裸になって、涼を求めました。そこに再ぴ戻ってきたB29が原爆を没下して皆殺しにしたのです。
     なのに、なぜ、被害者であるはずの日本が原爆投下を謝り続けなければならないのか。これはわれわれ日本人の間に、自虐的な史観が刷り込まれている証拠です。
     平成七年、ワシントンの米国立スミソニアン博物館が先の世界大戦終結五十周年を記念して広島に原爆を投下した爆撃機B29「エノラ・ゲイ」展を企面し、爆心地の惨状の写真、熱線で気化した少女の遺品、広島、長崎の原爆資料館から借りた資料などの展示を予定しました。しかし、原爆投下を決める過程の記述をめぐり、米国空軍協会、米国退役軍人協会などの強硬な反対にあい、スミソニアン協会も要求をのみ、展示は大幅に縮小されました。ところが、日本政府は、会式には何の抗議もせず、ほとんどの日本人が、これに疑間を抱きませんでした。堂々と日本人に対して無差別殺人をしかけた戦闘機が飾られるというのにです。
     パール博士は、この日本人の原爆に対する態度をさして、
    「東京裁判で何もかも悪かったとする戦時宣伝のデマゴーグがこれほどまでに日本人の魂を奪ってしまったとは思わなかった。東京裁判の影響は原爆の被害よりも甚大だ」
    と嘆かれました。来日された博士が広島の原爆慰霊碑に献花して黙祷を捧げた時の言葉です。
     
    「この『過ちは二度と繰り返さぬ』という過ちは誰の行為をさしているのか。もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか、わたくしは疑う。ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、その原爆を落とした者は日本人でないことは明瞭である。落とした者が責任の所在を明らかにして『二度と再びこの遇ちは犯さぬ』
    というのなら肯ける。
     この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというのなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のためまいたものであることも明瞭だ。さらにアメリカは、ABCD包囲綱をつくり、日本を経済的に封鎖し、石油禁輸まで行って挑発した上、ハル・ノートを突きつけてきた。アメリカこそ開戦の責任者である」

    6、 戦後スタートの日本の誤りを根本から是正せよ
     東京裁判は、結局、日本人に
    「東京裁判史観」という名の虚構をつくりだすための茶番劇にすぎませんでした。戦後も日本をアメリカの支配下に置くための策謀です。アメリカの狙いはまんまと成功し、戦後、日本はアメリカから押しつけられた枠組みの中で、戦前とは断絶した国家を築き上げました。それは多分に、日本人の国民性、文化、歴史に合っているとは言いがたいものでした。さらに戦後、すでに半世紀以上が経過しており、アメリカの指導のもとでつくりあげたシステムは老朽化し、日本の現状にはそぐわなくなっています。それでなくとも、戦後アメリカの占領体制を維持しようという意図のもとにつくられた現在の体制を基盤に国づくりを進めていっていいわけがありません。
     ジャーナリストの日高義樹氏の表現を借りれば、
    「日本の政治体制はもともと『占領時代の日本の状態をできる限り長く続けさせる』というアメリカの意図のもとにつくられた。一九五一年九月八日、サンフランシスコで対日講和条約が調印され日本は独立国になったが、日本国という建物は屋根も柱も壁もすべてアメリカがつくったものである。いまや日本国は築五十年以上の老朽家屋になり、あちらこちらにガタがきている」(日高義樹『アメリカの怖さを知らない日本人{PHP研究所刊)
    ということになります。言い換えれば、戦後からの脱却、真の意味での独立国づくりを行わない限り、日本の末来はないのです。
     戦後の出発点から、日本は誤っています。その過ちの上に、いくら経済発展を遂げてこようと、やがて行き詰まってしまうのは自明の理でした。日高氏のたとえに従えば、土台が最初から傾いている上に、家屋を建て増築してきたようなものです。やがて傾く運命にありました。いくら修繕しても、基礎がしっかりしていなければ、何度でも倒れます。根本から土台を正さなければ、確かな国づくりは実現しません。私たちは、戦後スタートの過ちを今こそ根本から是正しなければなりません。
     
                      (パール判事判決文より)

    February 12

    俳句

    俳句のリズム

       (1) 句切れ

     (2)切れ字…句中で、内容や意味を途中で切る働きをする語。切ることで余情を感じさせ句の主題を強調することができる。

     切れ字になる語にはぞ、かな、や、けり、ず、ぬ、らむ

     俳句の表現技法(短歌と同じはたらきをする。)  

    1)比喩

    銀行員ら 朝より蛍光す いかのごとく<金子兜太松本たかし>  

     蛍光灯の下で働く銀行員=いか

    2)体言止め

    柿くえば 鐘が鳴るなり 法隆寺 <正岡子規>

              季節は秋。門前の茶店で柿を食べ休憩。しみじみと秋を感じる。

     正岡子規18671902)自然をありのまま客観的に詠む写生俳句を唱えて俳句革新に努めた。ついで万葉調の写生短歌を唱え近短歌を確立した。俳句も名称も子規がつけた。

    3)倒置法

    <俳句鑑賞のてびき>

    ①ニ句一章…俳句は、一句が二つの世界からできていることが多い。

    ②季語…季節の感覚を鋭敏につかむ。

    1) 芋の露  連山影を  正しうす  <飯田蛇笏>

     『露』で秋が季節だと分かる。里芋の広い葉におりた美しく澄んだ露に秋の冷たくさわやかな空が感じられる。それが「連山影をただしうす」という見方につながる。

    2) いわし雲  大いなる瀬を  さかのぼる  <飯田蛇笏>

     『いわし雲』で秋。大空いっぱいいわし雲を映しているので「大いなる瀬」である。

     季語のきまり  

    1)どの季節に属するかは規定されている。

    2)一句に一つが原則。二つ以上の季重ねは避けるが、複数の時は主題のものが季語となる。

     いろいろな季語

     新年今年、元旦、門松、初詣、若菜、初空、初日etc.

     春風光る、流水、雪崩、立春、夏近し、試験、入学、卒業、桜、梅etc.

     夏 南風、五月雨、夕立、梅雨、短夜、風鈴、蟹、麦、バナナetc.

     秋 月、流星、台風、爽やか、夜長、七夕、渡り鳥、紅葉、葡萄etc.

     冬 木枯、北風、時雨、節分、年越し、餅、こたつ、熊、冬眠、白菜etc.

     <有名な短歌&俳句紹介>

      くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やはらかに 春雨の降る <正岡子規>

      意味→薔薇の新芽はまだ紅でいかにも柔らかく、そこにまた春雨が柔らかに降る。

      みちのくの 母のいのちを 一目見ん 一目みんとぞ ただにいそげる<斎藤茂吉>

      意味→故郷(東北の山形県上山市)で死を待つばかりになった母、母が生きているうちに一目会いたい、会いたい一心で急ぐ。

      たはむれに母を背負ひて  そのあまり軽きに泣きて  三歩あゆまず<石川啄木>

      意味→ふざけて母を背負ってみると、あまりに軽いのに驚き、思わず泣けて三歩と歩くことができなかった。なんと母は年老いてしまったのか。

    February 09

    短歌 露のようなもの

    短歌のリズム

    1)句切れ…意味や調子の切れ目。句点「。」をつけられるところをさす。初句切れ、ニ句切れ、三句切れ、四句切れ、句切れなしの四つの句切れがあります。

    2)歌調…句切れにより、五七、七五の歌調がうまれる。

    1 五七調雄大素朴男性的なリズム。「万葉集」に多い。

    2 七五調優美なだらかなリズム。「新古今和歌集」に多い。

     短歌の表現技法

    1)あるものをほかのものにたとえる表現技法。

    1)倒置…読者の印象を強める表現技法。  

     「金色の ちひさき鳥  かたちして 銀杏ちるなり 夕日の岡に 」<与謝野晶子>  

     (夕日の岡に  銀杏ちるなり)意味こがねいろに輝く小さな鳥の形そのままに銀杏の黄葉が散ってゆく。夕日のさしている岡に。

    与謝野晶子18781942)大阪生。与謝野鉄幹と結婚。第一歌集『みだれ髪』では、激しい情熱奔放な空想によって人間の本能を強く肯定し、封建道徳に抵抗した。

    2)体言止め…強めたり、を残す表現技法。

    3)…句の初めまたは終わりに同一音を並べ、歌にリズムをつける表現技法。

    「やわらかに 柳(やなぎ)あをめる 北(きた)上の 岸(きし)辺目に見ゆ 泣けとごとくに」  <石川啄木>  

     意味故郷を思うと柳の芽があおむ北上川の岸辺が目に浮かぶ。なつかしく涙をさそうように。

      石川啄木(いしかわたくぼく)(18861912)岩手県生。第一詩集『あこがれ』を出し天才的浪漫詩人の名を得たが、生活は苦しく、渋民村の代用教員、函館で新聞記者などをする。文学への思いをすてず明治41年上京。しかし、貧しさと胸の病に追われ、27歳の若さで病死する。実生活に根ざした感情(母労働貧しい生活希望を日常語を使った三行書きの短歌に表現する。        

    4)枕詞…ある語を導き出すために前に置く修飾語。多くは五音かたなり、普通訳す意味をもたない。

    「のど赤き 玄鳥ふたつ 屋にゐって 足乳根の母は 死にたまふなり」 <斎藤茂吉>

    意味巣づくりを新しい生命を生もうとする雌雄の嚥。この世を去った母。

     斎藤茂吉(さいとうもきち)山形県生。(18821953)大正二年、第一歌集『赤光』を出し、自我に支えられた強烈な余情を万葉調の歌に定着せた。正岡子規の写生説をさらに深め、生の根源の姿を写し取るという説をたて、「アララギ」全盛の基礎を築いた。 

     いろいろな枕詞 

    あしきの山、峰  からころも着る、袖、裾 くさまくら旅、かり

    たらちねの母、親 ひさかたの光、、天、空  しろたえの紐、雪

     <短歌鑑賞のてびき>

    1  感動の中心をつかむ…感動の中心を引き出すための背景をつかむ。感動を表す語には「けり」、「なり」、「かな」、「かも」などがある。      

    2声に出して読む…リズム情感をつかむ。